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自宅で看取るということ

2009年8月20日 00:50

奥野

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先日も書きましたが、この間2人の患者さんを自宅で看取りました。

病院での医療をしていたときは、看取りは恐怖でした。
やろうと思えばとことん集中治療ができる病院、
そのなかで、どのタイミングで看取りの医療に切り替えるのか、
非常に悩みました。

今でも忘れられないショッキングな看取りも数知れずあります。


しかし、在宅での看取りの大半は、
家族とともに喜びや悲しみを分かち合い、達成感を分かち合う看取りができるのです。


一例を挙げると、死の直前の数日間あるいは数時間というのは、
大概予想ができます。
それは在宅ではかならず家族に伝えるようにしています。
そして、半分強くらいは、最後の一息まで、家族に看取られながら、
最後の瞬間を迎えます。
その間家族は、徐々に死に向かっていく患者さんの姿を見つめ、
声を掛け、涙を流し、「がんばって!」と励まします。

しかし、病院では心電図モニターをつけられ、
家族は患者さんではなくモニターを注視するのです。

息が止まっても、数分間は心拍がでるので、
医療者も、家族も無言でモニターを眺めるのです。




話は変わって・・・
私にとって自宅での看取りは日常の自然の出来事と思えるようになりました。

人はいずれ必ず死ぬのです。

限られた余命で自宅に帰った患者さんは、
大体自分の死期が近づいていることをわかっていて、
身辺整理をされます。

ベッドで寝たきりであっても、家族の一員であり、
地域の一員であり、家族の生活の中に患者さんがいるのです。

家族も、日常の生活の中で介護や看護をするのです。

日常なんです。

そして、いずれ避けられない最期がおとずれるのです。
日常の中で。

私は、この日常の中での最期の時間や看取りが、
とても意味があるものだと思っています。

人が病気になること、死ぬことは特別なことではなく、
日常なのです。

家族も病院に泊まり込むこともなく、慌てて病院に駆けつけることなく、
患者さんの最期をみとどけることができるのです。
日常生活の中で。


死は恐いものでも、忌み嫌われるものでもないと思うのです。
人間は、命が限られているから、生きているうちに何か成し遂げようと、
一生懸命に生きることができるのです。

これが200年も300年も生きられるとしたら、
きっと1日1日の重みがまったく違ってくるでしょう。

物事は何でも終わりがあるから、〆切があるから、
それに向けてエネルギーを注ぐことができると思うのです。

死を受け入れることは、すなわち生を楽しむことだと思うのです。

私は常に自分の死を意識しています。
だから、一日一日を大切に生きようと思えるのです。

人の死と向き合う仕事をしているから、よけいにそう思うのかもしれません。


いつ死んでもいいように、後悔のない人生を送りたい。


きっと自宅での最期を臨む患者さんも、
死を意識して初めて残りの人生を意味あるものにしたいと思うのではないでしょうか?

だからこそ、充実した最期の数ヶ月?数週間を過ごしてもらうために、
我々は最大限の努力を払うのです。

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