医療者にとっての自宅での"看取り"の意味を考える
本日午前、1人の末期患者さん(男性)を自宅で看取りました。
そして、自分にとって、患者さんを自宅で看取ることの意味について考えるきっかけにもなりました。
患者さんは、これまでも、自分のことは自分で決めて来られました。
8月に自宅に帰ると決めたのも御本人です。
8月に退院してから約4ヶ月、一緒に暮らす奥さんが、患者さんの療養を支えて来られました。
味覚や食欲が低下してきていましたが、ピザトーストやたこ焼きなど、病院給食ではお目にかかれないもので工夫をしながら療養をつづけておられました。
病状が悪化したのは、12月に入ってすぐのことです。
何らかの感染症のため熱発され、一時は呼びかけにも反応されない程の状態でした。
そんなさなかの 「先生、ここ(自宅)でお願いします。」 という患者さんの一言には、心にこみ上げるものがありました。
先週迎えた70歳の誕生日には、誕生日の近い孫さん2人と一緒にお祝いをされました。
誕生日が3人続いているため、毎年3人一緒にお祝いをしているそうです。
しかし、昨日から意識が低下し、血圧も低下、尿もほとんど出なくなってきました。
いよいよ最期の時が近づいてきました。
娘さん夫婦と孫さん2人もすぐに駆けつけてくださいました。
2人の孫さんも、おじいさんに声をかけます。
そして今日、奥さん、娘さん、2人の孫さんと訪問看護師さんに看取られながら穏やかに永眠されました。
病気を抱えながらも本当にいつも穏やかで、心を乱されることなく、本当に立派な方でした。
患者さん自身や家族にとって、自宅で迎える最期には他には代え難い価値があると思います。
一方では、我々医療者にとっても他では代え難い価値があるのだと感じています。
私が病院に勤務している頃には、"看取り"はとても気の重たい仕事でした。
日本人の大体数の人が、「予後が限られているなら最期の時間を自宅で過ごしたい」と考えていることを知っているからです。
そして、目の前の患者さんもきっとそうだろうと解っているからです。
病院にいると、つい過剰な医療行為を行いがちです。
病院という環境が、在宅に比べると遥かに容易にいろんな検査や治療が出来るからです。
故に、何かをしないといけない衝動に駆られます。
果たしてそれでいいのだろうかと思いつつ・・・
病院というのは"24時間治療する"場所ですから、いくら最期を迎える患者さんでも、すぐに駆けつけないといけないような気がしていました。
日に何度か病室に足を運んでも、ご家族に会えないこともあります。
1人の人間の死を看取ることは、医療者にとっても家族にとっても大変な負担となります。
お互いに労いの言葉や思いやる姿勢が必要です。
今年度に入って、5人の方を主治医として自宅で看取ってきましたが、病院で感じていたような心のモヤモヤを感じることがあまりありませんでした。
医療行為をすることによってではなく、在宅で家族とともに、長年暮らした地域と共に在ることをサポートすることによって、私の存在価値を見出すことができるからではないかと思っています。
在宅での"看取り"は、医療者にとって、優しいもの、自然なもの、やりがいを感じられるもの、なんだと思います。
Text by 奥野





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